伊賀と甲賀1
江戸城の守護-伊賀と甲賀の入れ替え-をタイトルとする鶴山先生のメモです。その展開から表題を変更しました。忍者で有名な伊賀と甲賀(こうか)は隣接していましたが、それぞれに歴史がありそのスタイルも異なっていました。伊賀御三家(服部・百地・藤林(山本勘助の師がいた家))が仕切り、いわゆる請負制でいろいろな人に仕える方式であった伊賀。共同体による合議制をとり一人の主君に仕えた甲賀。それぞれの盛衰について記載された読み物です。
江戸城旧井伊家前に半蔵門(江戸城麹町口門)がある。
ここが半蔵門と呼ばれるのは服部半蔵の伊賀組が守備していたことによる。伊賀組は公儀の同心(下級武士=足軽)として高いプライドをもって活躍していた。ある時(三代将軍か四代将軍のころ)から、伊賀組が外され甲賀組が半蔵門の守備を担うようになった。徳川家康の耳目であった2代目服部半蔵(正成)の息子3代目服部半蔵の評判が悪く差配役を解任されたことなどがその遠因であろう。以降、甲賀組は江戸城内の殿中(西の丸)と正面の大手三の門の警備をすることになった。第一大手門から第二下乗門(ここで徳川御三家を除く諸大名は駕籠から下りなければならない)そして中の門、ここが本丸玄関口であった。江戸城大手三門の警護は10万石以上の譜代大名と番侍が裃とつけ、卒士(士卒=兵士、甲賀者)は羽織袴の正装であった。武具は鉄砲20、弓10張、長柄槍20筋、持筒2、持弓2組、甲賀百人衆は三門に配属され残りは殿中に詰めていた。現在も百人詰所の建物が残っている。
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