「合気道の歴史について」養正館長 望月稔(上)
「合気道の歴史について」とは、望月稔先生が、鶴山先生の要請で電電東京合気杖道部の会報に寄稿(昭和41年9月・12月号に掲載)された論考です。望月先生の博識と鋭い分析は後進の我々に参考となるところが多いことから、今回その一部に解説を加えて紹介することとしました。
望月先生は、1907年(明治40年)に生まれ、昭和3年頃講道館から研究生として植芝盛平の元に派遣されました。同論考によると「私はもと嘉納治五郎先生の特別の弟子であって、嘉納先生の特命で、柔道以外に剣・棒・空手その他一般古武道や合気道の研究をなし、今や二十余段を数えるに至ったが、これは、みな嘉納先生の御命令で修行した記録である。」との自己紹介があります。なお、会報によると望月先生は当時、柔道七段、合気道八段、古武道教授、剣道五段、居合道教士号と紹介されています。
「合気道の歴史について」
「合気は一般柔術や柔道の如く、自然体として互いに正面に向き合うことはあっても、自護体のようながっしり腰を据えた構えや、四つに組み合ったり、寝技になったりすることがほとんどない。また投げ倒し、ねじ伏せたりするのに専ら体捌に最重点が置かれてあって、足払いや、腰投げのごとき技が極めてまれであって、しかもその動作全体から見ると、全く古剣法の組太刀の動作と同一である。かような点を見るも、明らかに肉弾闘争術の進歩したものではなく、剣法の体捌が発展したのか、或いは逆にこの体捌の法が剣法に用いられたのか、とも角も古剣法と切ることのできない関係にあることは明らかである。」
解説 嘉納治五郎氏が創設した柔道は、起倒流柔術、天神眞楊流柔術の他、古来の柔術各流の長所を集大成し、その中心理論を「てこの原理」に統一した捕之技を主体としていました。また、明治時代に警察官向けに要望されていた安全な逮捕術として完成させることも嘉納氏の目標の一つでした。このように新しい体育学武道(スポーツ)として再構成されたものが柔道だったのです。柔道を学んだ望月先生から、合気道(当時は、大東流合気柔術)をみると、柔道の原型とされる古流柔術(一般柔術)とは違うものが見えた、まさに慧眼の持ち主です。
論考で述べている「剣法の体捌」とは入身転身の際に用いる体を捻らない捌きのことで、皇武術の形の中に色濃く残っています。
鶴山先生よると、柔道は旧来の柔術から完全に独立したものとして基礎理論に立脚していると評しています。一方、植芝盛平の合気道は、大東流の技を大本教の教義を借りて理論づけたものだと評しています。すなわち、大東流の極意である「合わせ」を相手と気を合わせる「和合の精神」に、「円くしぼる」は「宇宙は一体なり・・・」と言い換えている。なお、植芝盛平の高弟達もこの宗教論を継承しています、本論考にもこの世界観が記載されています、また、藤平光一や植芝吉祥丸の合気道理論についての言説も同様です。