大坪指方先生のこと6
節と節との空間-という言い方なれば、いっそ世阿弥までさかのぼって「花鏡(くわきょう)」をひもとけば、「せぬ所と申すは、その隙(ひま=技と技の間隙)なり。このせぬ隙はなにとて面白きぞと見る所(考えてみると)、是は油断なく心つなぐ性根なり(心は油断なく働かせ技の間を心でつないでいる心根)。舞を舞い止む隙、音曲を謡い止む所、その外、言葉・物まね、あらゆる品々の隙々に、心を捨てずして、用心を持つ内心(心の奥での心づかい)なり。この内心の感、外に匂いて面白きなり。(こうした心の奥の緊張感が外に匂い出て面白く感じるのだ)」とある。
(この引用は「万能(全ての技)を一心につなぐ事」の一節です。せぬ所の面白さを内心の感によるとし、能における心の働きの大きさを説いている、とされています。引用されていない前段には、意訳すると「鑑賞力の高い見物人の批評によると、技と技の間隙が面白いという。この面白さは仕手が秘事としている至極の工夫に由来しているのだ。歌と舞はすべて体で演ずる技である。」とあります。)
常間といい、早間(テンポが速いこと)といい、半間(間がズレること)といい、総じて間合いという。この言葉は平常語となって、私たち世俗の日常語にも移されて、間抜けな野郎とののしり、間がいいと言えば思いがけぬ好都合を意味し、間が悪いのはその逆で、どうも間が持てなくて夕べはついに飲み過ぎてしまった、などと言う。
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