骨法の堀辺が来た(続)10
(承前)時宗氏は昭和14年の皆伝授与式に立ち合っているが、この時皆伝書の筆耕者(大阪朝日新聞総務課の担当)に同じものを書いてもらい(下書きをもらったのかも知れない)記念品(後日のための参考)として持っていたものだった。その後、時宗氏が出征した際に惣角の印鑑以外の遺品(英名録等)を佐川氏に預けたのである。戦後復員した時宗氏が佐川氏に遺品の返還を求めたところ、同氏は言を左右にして返還に応じなかったそうである。やむなく、時宗氏は宛名と捺印がない皆伝書の写しに署名押印して、佐川氏を皆伝者とすることを条件に遺品の返却してもらった、というのである。
時宗氏が私の家に泊まった際、私が「武道の免許皆伝書は一流派に一人であり、惣角先生はその慣習どおり久琢磨一人に出した。これでは惣角先生が二人に皆伝者を出したことになりますね。」というと、「あの時は皆伝書の写しに捺印しなければ、英名録等を返してくれなかった。英名録は最初に預けたときより3冊不足していた。」と残念そうに語った。この辺りの事情は時宗氏門下の人たちは承知しているとのことであった。
ところで、佐川氏は東北地方への巡回指導の際、大東流は武田惣角創始説を語っていたが、それを聞いた吉丸氏から伝聞により、堀辺氏の「武田惣角の創始なる合気柔術・・・」なる主張は生まれたのであろう。堀辺氏の主張は師匠ゆずりであるから、その認識が誤っていても仕方ないのかも知れない。
上記インタビューの際、私は「この人は大東流についてあまり知っていない。」と感じとっていたが、十数年後図らずもその弟子の主張から再認識したということである。(続)
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