
植芝盛平考6
(承前)植芝盛平は、大正11年に武田惣角にもらった伝書二巻(大東流合気柔術秘伝奥儀之事・進履橋)をそのまま、富木・望月に渡している。これは彼らと年齢が近いので独立したとき合気柔術師範を名乗れるよう配慮したもので、共に柔道家(三段)ということも理由の一つであった。
さて、九星術でみると、五黄土星の関係で山本角義と砂泊諴秀の二人がいる。二人とも「あくの強い」人である。五黄土星の生まれは、要注意である。稲益君(朝日カルチャー合気道講座の助手)は昭和17年の四緑木星である。塩田剛三も同じ四緑木星。戦前から内弟子として植芝道場に住み込み、一貫して盛平を立てていた。柔軟性があり、協調性に優れて人間関係を大切にし、調和を重んずることから、今後は四緑木星を中心にした方がよいであろう。B子(鶴山先生の彼女)は無論、四緑木星である。
盛平が大本教を離れ独立して合気柔術を教えるようになったきっかけは、大正14年4月東京の山本権兵衛(当時74歳、第16・22代総理大臣歴任)私宅で説明会を開催したことにある。当時盛平42歳。私が電電公社東京合気杖道部を作ったのが昭和37年12月34歳の時で、盛平が竹下大将らの招聘で東京で指導していた43歳、私は『図解コーチ合気道』を発行した日本全国3,000軒余りの本屋に出回った。盛平が専用道場(皇武館)を構えて一般公開指導(入門の制限はあったが)を始めたのが48歳、世間一般には知られていなかったが、東京の専門武道家を集めた道場開きも行なっている。
一方、私は昭和49年10月46歳の時、朝日カルチャーで女性合気道教室を開いた。午前中のみで30余名の会員がいた。48歳の時には、午後の部も設け男性を受け入れるようになった。朝日の新聞広告で広く周知されるようになったのである。(続)