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朝日カルチャーセンター「合気道教室」誕生秘話

鶴山先生は、昭和48(1973)年11月に電電公社を退職し、翌昭和49年から朝日カルチャーセンターの「女子護身術」講座(後の合気道教室)の講師を始めました。

ところで、朝日新聞社と植芝合気との関係は、盛平が大阪朝日新聞社で久琢磨を指導し始めて以降、密接良好なものでした。盛平は大阪を拠点に大東流ではない新武道の宣伝を久に託し、久も大阪日日新聞(朝日のスポーツ派)に毎日この武道を紹介するなど協力したのでした。その後、朝日新聞東京本社に植芝合気道の職場サークルができる、植芝本部主催の演武大会には必ず朝日新聞社が後援するなど朝日新聞社との良好な関係は続いていました。
こうした中、朝日新聞社の子会社の朝日カルチャーセンターが、植芝合気でない合気道教室を始めた、しかも植芝本部の拠点である新宿で・・・

昭和51年ごろから「図解コーチ合気道」の著者自身が指導する合気道教室との宣伝が行き渡ってくると、地方の人から、「朝日カルチャーセンターの合気道教室は、なぜ植芝本部主催でないのか?」という問い合わせが殺到したそうです。あわてた吉祥丸は、知己を頼って朝日新聞社を通じ子会社の朝日カルチャーセンターに鶴山先生を採用した理由を問い質しました。この圧力に対して、朝日カルチャーセンターとしては、先生の教室は大変人気があったので、教室を中止するというような話には全くなりませんでした。
朝日カルチャーセンターの役員は、この話を鶴山先生に伝えるとともに、「植芝本部とはできるだけ異なる合気道の教え方はできないか。」と要請しました。
そこで先生は、新指導方式に切替えACC合気道のスタイルが生まれたのでした。具体的には、大東流的内容を打ち出し、一般合気道とは明確に差別化したのです。先生の教室は、呼吸体操から始まり、時期のテーマに沿った技法の稽古、講話、続きの稽古という流れでした。「話ができて、技ができて、文章が書ける」の三拍子がそろった先生でしたから、大変な人気を博していたのです。

ところが、昭和63(1988)年12月21日未明に先生は急逝されました。これを知った植芝本部は再び朝日カルチャーセンターに同センターの合気道講座は植芝本部から派遣された講師が行うよう圧力をかけ、今度は追い出しに成功したのです。当時、例えば稲益豊氏は正式な助手(朝日カルチャーセンター公認)として、代講していましたから、鶴山先生亡き後でも、同教室が維持できるかとの照会はあってしかるべきところ、そのような問い合わせは一切なく、教室は中止されたのです。先生の教室から植芝本部講師の教室に移る人はいませんでしたから、朝日カルチャーセンターにとっては、打撃だったハズですが、そこは天下の植芝本部、教室維持のためにいろいろやったのでしょう。

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