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武蔵・宗矩と中国拳法

宮本武蔵の二刀流の考え方と柳生宗矩の新陰流兵法とでは、その主張するところが明確に異なる。すなわち、戦国乱世期のあくまでも闘う剣法と徳川儒教政策に適合させ体勢を守るための剣法ではその基本理念が全く異なっているのである。
これは、中国拳法の内家拳と外家拳の違いと同じ次元のものである。松田隆智が「中国拳法を内家、外家の区別だけで主張するもの(鶴山先生のこと)があるが、これは誤りである。中国拳法には南派、北派があり、内家、外家も南派、北派に分けて考えなければならない。」と主張したが、中国拳法に南派、北派があるのは当然のことで、広い中国では、南と北では気候も食べ物も習俗も大きく異なっているからである。このことは、規模は違うが日本の中でもいえることで、東と西では気候も政治的影響力も異なっていたのである。すなわち、私(鶴山先生)が「中国拳法」で分析して見せたのは、国の政策転換から武術が変化したということである。明(漢民族)から清(満州族)への時代別の区分なのである。一冊の本の中で中国拳法の本流を説明したのである、そこから派生する亜流、傍流まで平等に入れたら全く混乱するだけだからである。これらを平等に扱うことで中国拳法の本をたくさん出している松田には気に入らなかったのであろう。

武蔵の剣は京都より西南、特に旧豊臣家臣の大名間で優遇されたが、京都より東では徳川の影響力が強く優遇されることはほとんどなかった。旧大阪方にとっては、徳川幕府を倒す機会があれば武蔵の剣が役に立つであろうとの期待から理解者が多かったのであろう。徳川体勢を守るための活人剣とはその発想から対応まで異なったものであった、ということだ。

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