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謝礼問題6

(承前)植芝先生は代理教授(師範にあらず惣角の代理として)を許され、一人教授する場合入門料として3円惣角に納入する規定となっていたが数万人の門人があると宣伝しておりながら入門料を納めないので惣角が要求したことがあり、その時には門人をとっておらぬとか、無料で教えているとか言って、さらに惣角は金に汚い人であると逆宣伝しておった訳です。
その他いろいろあり惣角門人某先生も植芝先生の不実を非難されたこともありましたが、私が中に立って不問に付したこともあります。
私は惣角は過去の人であり、実際惣角門人の植芝先生を斯道の第一人者として傷つけたくないと思い私は今まで真実を公表しなかった訳であります。最近各方面より問い合わせがあり回答に困っている訳で、私は特に惣角門人は親しく交際いたしており、一人一人の人格、技術等を誰よりもよく知っているものであり、皆一致団結して斯道に精進されることを願っておるものであります。
御貴殿様より御熱心なる質問に対し真実を申し上げた次第であります。次に大東流流名についても種々御研究あそばされ誠に感服いたしております。大東流については宣伝しておらぬため誤解される点もありますが、これもやむを得ないことです。
大東流元祖は新羅三郎源義光となっており、義光の近江の大東(地名)に館を築き(大東は平安朝のころの地名であったと伝えられております。)、館の三郎と称して住み武道修行をしたのであり、後兄八幡太郎義家が八幡明神に祈願八幡太郎となり、戦功あったのは神の加護であるとして、館三郎新羅明神に祈願し、新羅三郎源義光となり後近江の甲賀者を使い各地を探らせた史実があり、当流は義光修行の地大東の地名を流名にしたと伝えられております。
最近大東久之助から伝えられたと誤り伝えられておりますが、江戸にて元禄のころ日本伝三浦流の流れを受ける大力無双の大東久之助がおり門人に唐犬を殴り殺した唐犬権兵衛ありと伝えられており、従って新羅三郎流祖の大東流とは同一ではありません。
現在は大東流は武田家のみの大東流ではなく、当流を学ぶ皆様の大東流として真実を学ぶ上からの必要と、昨年暮れ惣角遺品英名録(門人帳)その他資料に基づき惣角年譜の第2巻を南堂先生に送ったのでありますが、ご覧にならなかった様ですから、今回内容を一部追加し、大阪市の久琢磨先生宛送りますから、久先生より鶴山様に回送するようになりますのでご覧になりましたら小生宛ご返却くださいますようお願い申し上げます。
小生昭和28(1953)年ごろ各流の合気道が起こり互いに同じ道に進みながら相反目するようになると予想され、植芝盛平先生を中心に組織的に団結したいと思い、植芝先生にも会って私の意見を申し上げて賛成を得たのですが、一部反対される方もあり、また植芝吉祥丸著の合気道の中に『合気道は植芝盛平先生の編出したものである事、また惣角のことも誤り記入されており』私の努力の足りなく実現できず遺憾に思った訳です。
御貴殿の御意見のとおり真実は真実としてこの立派な諸先生の長年の研究であるので、この流派を一致団結して組織化され、指導される日の早からんことを祈っておるものであります。
今後一層斯道に御精進の程お祈り申し上げます。 敬具」

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