会津紀行2
足立宮司に話を聞いたところ、「西郷頼母会の人たちや大東流関係者が幾人も来るようになった。」とのことだったが、宮司自身は西郷頼母のことはあまり知らないようだった。そこで図解コーチ合気道と護身杖道の2冊を置いてきた。宮司はこれを読んで今後訪ねてくる人たちに説明できるハズだ。
上記写真の右側の社務所が西郷頼母が住んでいた建物であるが、あと数年で取り壊される古いものである。
内側は20畳ぐらいの広さで、冬は相当寒かったと思われる。この神社そのものが相当へんぴな所にある(福島県立公園-霊山-)ため、ここを尋ねてくる人はいなかったハズ。
そこに惣角が尋ねて来て、惣吉(惣角の父)が白川口の戦いで頼母の部下であったことなど聞けば、何くれて援助したくなるのは当然であったろう。
霊山の町は大きな町である。「霊山」というと気味が悪い印象があるが、霊山は奇岩怪石が突兀(とつこつ=高く突き出る)として起こり、数百仭(じん=高さ)の絶壁が削立する自然の要害である(ヘッダー画像は霊山)ことから、昔から密教の修行の場として栄えたところらしい。霊山神社は明治18(1885)年には別格官幣社に列せられ戦前まで特別優遇されたが、現在は霊山町の鎮守様的に扱われているらしい。現場に来てみないとこれらのことは判らないものであった。
2,700石の会津藩家老の晩年の家と考えただけでわびしい感じがするが、それだからこそ、惣角が面会できたのである。頼母は惣角の父がかつての部下であったと聞いても侍ではない下端であった惣吉の名前など知るよしもなかったハズだ。
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