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公武合体と大東流4

今でこそ、尾張柳生と区別するために、江戸柳生という言い方をしているが、これは徳川時代には通用しないものであった。徳川時代は江戸の柳生家は「大和柳生」と称した。柳生宗矩を初代とする柳生藩は、石高から見れば、270藩中最下位に近いランクではあるが、12,500石の大名であって、大和国の領主であり、徳川家の家臣ではない。一方、尾張柳生家は尾張藩の家臣であるから尾張藩柳生家と称されるものである。同じ剣術指南役であっても、片や大名、片や家臣の違いがあり、将軍の剣として習える者は特定されていたのである。そして、将軍の護身術たる江戸柳生には柳生流躰術(柔術)が存在した。西郷が惣角に江戸柳生系合気柔術を教えるに当たって、「大和柳生流躰術」として教え、その由来から受講資格者に制限をかけたのである。惣角が「ヤマト」という名称にこだわった理由はここにあったのである。

さて、大東流(という名称)の誕生には、惣角が西郷を訪ねたころの時代背景もある。日清戦争勝利に沸き立つ中、明治28(1895)年、大日本武徳会が設立された。

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