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お陰で受けた朝日の光-合気道1
久琢磨のメモを紹介します。このメモは既述の原稿などを切り貼りして作られていますので公表されたものかどうかは確認できませんでした。久琢磨が武田惣角に出会う運命的な歴史を御覧下さい。
お陰で受けた朝日の光-合気道
=余生を大東流合気柔術の発展と遺伝に=
免許皆伝 久琢磨
長年の岳学力闘の末、ようやく学校を卒業した私は大正8(1919)年の春、神戸の鈴木商店に入社した。そのころは三井・三菱と肩を並べて繁盛していた大貿易会社だったがわずか10年経ないうち昭和2(1927)年関東大震災後の大不況の波を受け閉塞し路頭に迷った。(続)
補足説明:明治28(1895)年11月3日に高知県安芸郡で生まれた久琢磨は、13歳の時父が遭難死亡したためか、丁稚奉公をしながら退学・入退学・復学を繰り返し、19歳で神戸高等商業高校(神戸大学の前身の1校)に入学、大正8年3月に同校を卒業しました。在学中に英領印度・南洋諸国海外経済調査に派遣され、カルカッタで三井物産の栗山氏と知己となり卒業後は同社に入社する約束となっていました。卒業前に学校推薦を得ようとしたところ、水島校長から「君の約束を守りたいという精神は尊重するが、実は鈴木商店の金子さん(金子直吉:同商店の大番等)から、是非君をよこしてくれと頼まれて、実は内諾している。三井の方は自分から了解を求めるから、鈴木の方へ入社してもらいたい、金子さんが特に嘱望しているのだから、その意気に感じて働き給え。」という経緯から鈴木商店に入社したのです。その鈴木商店は、久の記述(旧鈴木商店旧友会誌「たつみ」)によれば、
①同社のインテリグループと丁稚からのたたき上げの金子さんとの思想的ギャップによる争い(お家騒動)があったこと、
②この弱点につけこんで打倒鈴木を目論んだ競争者の陰謀があったこと、
③金子さんの政商的行動にあきたらずとしていた債権者台湾銀行首脳部の意向があったこと、により大鈴木は崩壊した、とあります。
この破綻に際して、久は長文の声明書を提出し退社したのです。