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宮本武蔵と吉川英治6

平将門(たいらのまさかど)とは、平安中期の武将で、関東の最強豪族となった。下総猿島(さしま)に王城を営み、文武百官を置いて新皇と称したが、朝敵とされた後、討たれた(940年)。この将門が、夏祭りの花、神田明神に祀られ江戸の町民たちの信仰を集めていた。
将門が祀られている神田明神は、最初は大国主神(おおくにぬしのかみ)を祀る神田ノ宮(現千代田区辺り)として創建されたが、江戸時代に遷座し神田明神と呼ばれるようになった。将軍も寄進して江戸庶民の心意気を支援したのである。幕府は、朝廷に反抗して関東を支配した将門の霊を祀ることで、将門の怨霊を鎮めることを願ったのである。
さて、江戸庶民の権力に対する発想は、ねずみ小僧次郎吉への扱いの中に見ることが出来るのである。次郎吉は江戸時代後期の盗賊(1832年処刑)であったが、警護が厳しいハズの武家屋敷専門に忍び込むことで、権力を笠に着た武士をあわてさせた。これで江戸庶民の喝采をあびたのであった。その後稲葉小僧新助(天明年間(18世紀)の盗賊)という義賊と符合、混同がおき、芝居や戯曲、講談、小説等に仕組まれていった。このようにねずみ小僧が激賛されたのは、平将門の怨念を歌舞伎に組み込んだ江戸庶民の権力に対抗する地盤があったからであろう。
同様に武蔵の奇人変人ぶりを色々聞かされても、その話が庶民の共鳴を呼ぶことになる。例えば、日常風呂に入らず臭気プンプンの武蔵と聞いても、百姓・町民の中には風呂(当時、家風呂があったのは大商人か家主ぐらい、他は皆銭湯に行っていた。)にも入れず、湯銭にも事欠き食べるだけがやっとの者には共感が呼べる存在だった。また、江戸庶民にとっては、自分たちより貧しく、生活に困窮していても河原乞食のような扱いもされず、大名屋敷にも堂々と出入りする武蔵は特別な存在であり、権力に媚びず剣の求道者、そしてヒーローたるサムライであったのだ。

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