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公武合体と大東流7

さて、幕府は外圧に対する軍制改革を進めるなかで、安政2(1855)年講武場を創設して、旗本以下の面々に武芸・砲術をはじめとする軍事訓練を行うことを布告した。
講武場は講武所と改名され、安政3年築地鉄砲洲に竣工した。その後、万延元(1860)年講武所は神田小川町に移され、慶応2(1866)年陸軍所と改称されたのである。この間、会津藩主松平容保は文久2(1862)年8月に京都守護職に任ぜられ、文久4(1864)年には2か月間だけではあったが、軍事総裁職に就いている。
そして、ここに全国統一武術の研究開発の命が日新館に下ったのである。当時の館長は井深宅右衛門(妻が西郷頼母の妹)であり、蟄居(ちっきょ)中の西郷頼母の智恵を借りたのである。

ところが、元治元(1864)年孝明天皇も臨席する諸侯の会議(参頂会議)を一橋慶喜が解体させ、合議体制を実現すべく進んでいた公武合体は挫折したのであった。会津藩の英知を傾けた全国統一武術はその完成をみたが、急激に変化した政治情勢においていかれ、ついに日の目を見ることもなく歴史の闇に沈んだのであった。(完)


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