沢庵和尚5
家康の命により石田三成が六条河原で斬首された。三成と関係が深かった春屋和尚は河原に捨てられた哀れな死体を引きとり三玄院の墓地の一隅に葬り、戒名をつけた。「江東院正軸因公大禅定門」そればかりか、佐和山城で大敗し自刃した兄石田正澄の戒名も春屋和尚が選ばれその影塔を建立した。「玉泉院継芳菊公大禅定門」このように沢庵は石田三成と関係があった。後の大徳寺事件(紫衣事件)で追放される基因がここにあった。
沢庵は三玄院の春屋和尚とその弟子で自身の師である薫甫(きんぽ)と共に佐和山に向かった折、詩を残している。「暁出、禅房、到白河。月傾西嶺、我東過超関即見大津浦。隔洛遙望志賀波。桐葉夕陽漁家顕。蘆花浅水釣船多。此時此景磯頭雨。江海流入一簑」又右衛門宗矩は、この年沢庵を訪ねているハズである。
さて、柳生家は筒井順慶や松永久秀それぞれについて相争っていたが、織田信長の出現により小康をえていた。そして、隠田事件が起こる。柳生所領内に隠田があることが密告により露見、その所領すべてが没収されたという事件である。これは天正13(1585)年に起きたとする説と文禄3(1594)年とする説がある。石舟斎のかつての剣友松田織部之助が検地に伴い密告したのである。この大難も、関ヶ原の戦い前夜の徳川家康の命による宗矩と石舟斎の情報活動の論功行賞で旧領が復し安堵したのであった。