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公武合体と大東流3

世が世なら、このような名門の西郷と小作人の息子惣角が直接口を利くようなことはあり得なかった。ところが、戊辰戦争で会津藩は消滅、明治時代になり(西郷から保科に復姓し)宮司に転じた保科は、明治22年59歳の時霊山神社の宮司となり明治33年まで勤めたのである。この間、惣角が訪ねてきたのである、惣吉(惣角の父)が白川口の戦いで頼母の部下であったことなど知ったのであろう。

大東流という流儀名についての逸話が残っている。吉田幸太郎から聞いた話である…
吉田が惣角から直接聞いたという。「わし(惣角)は、最初『ヤマト流』と呼びたかった。しかし、皆が『ダイトオ流』というので、大東流とした」また、別の機会に「『ヤマト流(大和流)』という弓の流派があるというので、そう読まなかった」とも語ったとのことである。なお、この話は『合気道教室(志々田文明他著)』にも載っている(同書235頁)。これらの話しからは、時宗氏が主張する新羅三郎が大東の館に住んでいたから大東流という説は根底から崩れてしまうのである。

そもそも「大東流」という名称は明治時代以前には存在しなかった(後に、大東流三大技法と呼ばれる技法群には、西郷がこれに大東流と名付けるまで名称はなかったのである)。明治末期に流行していた大東圏思想にちなみ大東流としたのである。では「ヤマト流」とは、どこから出てきたものか?これも西郷が惣角に教えた内容から来ているのである。

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