武田惣吉のこと3
この時、農民を「野兵」と称して1,000人募った。一人当たり二人扶持200文を与えた。また、猟師は1村当たり2~3人を徴用し、町方は「町兵隊」として武士格を与えた。これに関しては…
「村々へ野兵と名付け郡中にて千人計り被仰につき一人前に二人扶持、小遣い二百文計りずつ被下候様、村々の与内一人前につき日々二朱ずつつけ、中には二分ずつの村もあり候よし、猟師とも一村より二三人ずつ被召上、是も右のとおりのように御座候、町人は町兵隊と申し、右農兵と同じく太刀御免、独礼格に被仰につき四方口を相堅め候」とある。
惣吉はこの「農兵」であったものと思われる。町方が「町兵隊」と称し武士格とされたのは、ここでいう町方は商人ではないからである。会津城下の武家屋敷にいる、小者(武士予備軍)等一族郎党のことを町方というのである。時宗氏が「惣吉は自宅に会津戦争参加者数人を引きとり面倒を見た」と言っているが、これは惣吉が家臣ではなく農民だった証拠である。当時武家屋敷は藩からの支給なので、藩士は村割り当てとなっていた。戦後処理として藩士の家族を預かったということである。