公武合体と大東流6
さて、公武合体とは…
朝廷(公家)と幕府(武家)を協力させ、それに雄藩(薩摩など)が加わって、弱まった幕府の支配体制を補強し封建支配の立て直しを図るためにとられた政策…である。
嘉永6(1853)年のペリー来航から幕藩体制、特に海防と武備の弱体が顕在化した。非開国攘夷を主張する徳川斉昭と開国を主張する井伊直弼(日米修好通商条約締結者)ともに、これら弱体を補強すべく人心の一致が不可欠との共通認識があった。安政4(1857)ハリスとの日米通商条約交渉に当たって幕府全権(井上清直と岩瀬忠震(ただなり))は、このような天下の大事は幕府の独断(老中の専制体制)ではなく、全国大名の衆議により、天皇の裁可を得るべき、すなわち、天皇・将軍・大名の組織化が必要である、と後の公武合体に相当する構想を建議した。しかし、時の大老井伊直弼はこれを採用しなかった。
ところが、万延元(1860)年3月の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された、この事態を収拾し幕政を引き継いだ老中安藤信正は方針の転換を図った。同年8月には、①公武合体の実施及び②破約攘夷(条約の破棄)を条件として和宮降嫁の勅許を得たのである。ここから公武合体の実施に向けた諸準備が具体化していくのである。しかしながら、文久2(1862)年1月坂下門外の変で安藤は負傷し失脚、孝明天皇の意向から②を優先すべきとする長州藩の動きなどから、その後、不穏な情勢になっていったのである。