日本経済新聞「春秋」に取り上げられた合気道2
補足説明:この「春秋」担当氏がどの程度合気道のことをご存知なのかは存じませんが、一定程度、研究・理解されていることはわかります。あくまでも、合気道の一面をとらえ、コラムとして上手に読みやすくまとめているものだと思います。この前提で、気づいた点を補足等してみます。
嘉納治五郎氏が植芝盛平氏の合気柔術(合気武道)に感嘆したのは事実で、
昭和5(1930)年10月に見学しています。この時の言葉とされるのが、
コラムに引用された「これぞ私が理想とした武道である」です。が、この言葉には続きがありました。
全文は「これぞ私が理想とした武道、すなわち正真正銘の柔道である」だったのです。盛平氏の実力を知った嘉納氏は、同氏を講道館に迎えたいと考えていたようですが、すでに一流一派として名実ともに備わりつつあった同氏を引き抜くのは無理とみて、逆に弟子を盛平氏門下に送り込んだのでした。
このとき嘉納氏から「真面目な者」として選ばれたのが、望月稔・武田二郎氏でした。両氏は、出向に際し、嘉納氏から「お前達、礼を尽くして習ってこい、それが日本の古武道を後世に伝える一助にもなるのだ・・・」と督励されたのです。こうして、柔道と合気柔術が出会ったのでした。
その後、富木謙治氏、星哲臣(皇武術創始者)氏など多くの柔道家が盛平門下となったのです。なお、この当時の技法は、今の植芝合気道とは全く違う、武田惣角直伝の大東流合気柔術そのものというものでした。盛平氏は50歳前後の全盛期、“地獄道場”とも呼ばれた皇武館合気柔術の時代でもあり、実力者があふれる、すばらしくも厳しい「武道練習」の時代だったのです。