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会津紀行12

西郷頼母の墓はこの先にあるとのこと、同じ寺(祥雲山善龍寺)に全会津剣道連盟が建てた会津五流流祖墓塋(はか)図があった。日新館で教伝されていた会津五流には一刀流溝口派が入っている。
会津娘子軍(じょうしぐん)の「なよたけの碑」もここにあったが、今は誰も尋ねる者がいないらしい。なお、「なよたけの碑」は西郷頼母の自刃した妻千重子の時世の歌「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」からとったと聞く。
西郷家の墓も周りにある会津藩士の墓も誰もお参りする者がいないらしく、ものすごく荒れていた。西郷家の墓には卒塔婆が一本もなかったのには驚かされた。初代松平(保科)正之の墓があったが、これは分骨か本物かは今後の研究テーマにもなろう。

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もう日がすっかり落ち込んでいる、うっそうとした林の中に西郷頼母の墓があった。最近やっとこの場所の伐採が始ったようだ。暗すぎて写真に写るかどうかは自信がなかった。

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頼母の墓は本人の希望で一番小さく造られている。墓には「保科八握髯翁墓」「室飯沼千重子位」とあり側面に近悳命日明治三十六年四月廿八日と刻まれていた。としても、西郷四郎の孫が川崎か小田原にいるのに、また、会津武家屋敷が西郷頼母を宣伝に利用しているのに、この墓のあり様は、どのようなものなのか・・・考えざるを得なかった。

帰路は近道と思って飯盛山の裏から入ったが、地図どおりの近道ではなく更に時間が少なくなり、スピードを上げて郡山駅に向かった。
普通の人の倍の行程で巡った訳だ、ほぼ私の予定どおりの日程がこなせた。大坪先生も思っていなかった予定外の収穫に喜んでいた。赤羽に着いたのが7時ごろだった。

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