軍事総裁 松平容保(上)
会津藩主松平容保(かたもり)は、京都守護職を務める間、軍事総裁にもなっています。この軍事総裁就任の意義についての鶴山先生のメモです。
会津藩主松平容保は、文久2(1862)年8月に京都守護職に就任した。その後、文久4(1864)年2月に京都守護職を免じれ、軍事総裁職に就任した。京都守護職を継いだのは、容保をハメ、京都守護職を押しつけた松平春嶽であった。容保の軍事総裁職在任期間は孝明天皇の復帰要請もあり、2か月弱であった。同年4月には、軍事総裁職を罷免され、同職も廃止された。その後、京都守護職に復職している。軍事総裁職は容保のために用意された役職であろう。容保の軍事総裁職在任時が、実は公武合体の準備の仕上げの時期であったのだ。
幕末期、江戸幕府は軍制改革を行い、西洋式陸軍を創設し、軍事の訓練機関として講武所(旧講武場)を設置していた。講武所では撃剣もやっていたようだ。また、この時期徳川家に近い藩では、総合武術化が進められており、柳生心眼流や東軍流が現存している。
さて、軍事総裁の職務は陸軍奉行以下を総帥することにあった。軍事総裁の指揮下には、陸軍奉行、講武所奉行、騎兵奉行、歩兵奉行、御旗奉行、御軍艦奉行等すべてが入り、文字どおり軍事面のトップであった。軍備に関しても全権を持ち、外敵に対する軍備増強を指揮する役割も担った。
この軍制改革は軍事の近代化(西洋式の導入)を図ったものだが、武家社会内部の身分・格式は維持するというものであった。