公武合体と大東流三大技法
鶴山晃瑞著「図解コーチ護身杖道」まえがきに、
「大東流三大技法が完成したのは幕末期である。尊王攘夷の渦中に、孝明天皇を中心とする「公武合体」の新政策が打ち出され、その体制に適応する武芸として日新館の英知を結集して完成をみたものである。」とあります。
さて、公武合体(公武一和とも)とは、江戸末期の弱体化した幕藩体制を朝廷の伝統的権威と結びつくことによって建て直そうとした政治運動のことで、運動の中心は諸侯でした。一方、尊王攘夷とは、天皇を尊び政治の中心とする理論と、外国を追い払う主張とが結びついた思想で、運動の中心は中・下級武士でした。
公武合体は、具体的な政権構想を創出する運動でした。将来的には国内事務宰相・国外事務宰相を置くなど明治以降の内閣制度に近い案もありました。その構想の一部には、政治総裁職、政務参与など新設するほか、参勤交代の緩和を行うなど具体化したものもあります。
公武合体を達成するには、「武」を固めることも重要な構想だったのです。既述の参勤交代の緩和策もこの一環で諸大名の負担を緩和し各藩の富国強兵政策を推進させようとの考えでした。また、いずれ、1万石の大名も100万石の大名も同じ大名(サムライ)になるとの構想から「武芸も全国統一した中央政府が管理出来るものが必要」とされたのです。現存する諸藩の諸流派では、優劣の争いが生じてしまうことから、これらを超越したものとしての武術が必要との発想が大東流三大技法の基本理念とされたのでした。
このため、諸流のすべての極意を集約した柔術が作られ、発想の転換や各種教訓を内包させた合気柔術が構成され、戦略思想に基づく合気之術が完成したのでした。
なお、鶴山先生は、昭和58(1983)年に初めて実施された比例代表制による参議院選挙の際の田中角栄による田中派の秘密工作に結びつけて(端緒に)、公武合体の秘密の準備(上記記載内容)が行われたことを書き残しています。