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鬼の冠-合気柔術名人-を評して(下)

「大東流の允可を相伝したのは、明治31年5月11日であった。先代宗家は旧会津藩家老西郷頼母改め保科近悳様だ。」日付けは私が資料提供した武芸流派大辞典からの引用だが、西郷頼母は宗家を名乗ったことはない。
「親父殿から剣術、棒術、相撲、大東流を学び、会津藩指南役渋谷東馬より小野派一刀流を学んだ。さらに榊原先生の内弟子となり、また鏡新明智流桃井春蔵の弟子となった。」これはいつ、何歳の時かといいたい。しかし、ここでは時宗氏がかつて主張していた小野派一刀流免許のことは、引っ込められている。私の「護身杖道」発刊以降の変化である。
「わしは会津の御伊勢の宮の神主の子に生まれたが…」はお笑い、西光寺の住職は明治になり神仏分離で神道になったと語っていた。神主の息子が無字というのは考えられないし、惣吉も神主ということになり、その神主が草相撲の大関? 現代ならそういうこともあるかも知れないが、徳川時代にはありえない話だ。
「武田家は御伊勢の宮の神官であるとともに、会津御池田の地頭職をつとめていた」もし、この説明を真に受けるなら、大きな問題が生ずる。地頭職とは鎌倉時代に生まれた武力領主であり、江戸時代になっても大名の給人や軍役衆に連なる領主は、各地で地頭と呼ばれていた。会津藩内でそのような地位に就ける者は限られており、この武田家は該当しない。
「惣吉は長男とともに会津若松城に入場する」は新説だ。白川口の戦いの参戦したようであるが、それ以上の資料はない。

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