沢庵和尚13
また、家光は能を見せるといっては、
お茶会があるといっては、
月見をするといっては、
沢庵を登城させ、ときには明け方、鶏が鳴くに及ぶことも度重なった。家光としては博学の沢庵を政治上の相談相手と思っていたのであろう。
家光の根強い懇請に動かされ、江戸品川に新寺の造営がなるや台命(将軍の命令のこと)により沢庵が開山におさまった。
建初盛事今謄 (建初の盛事、今見るに似たり)
新築梵宮檐並檐(新築のぼん宮、軒々と並び)
言得先人如合節(言い得たり先人、節を合すが如くと)
曾開佛法是東漸(かつて開いた仏法、これ東方に伝わる)
家光はしばしば東海寺を訪れ、沢庵は台命に応じ一首を詠み出でた。
「久しかれ 寺も新棟つく波山 海となるまで 君が代なれば」
方丈の苑庭の池に臨んだ小亭があって、沢庵は釣玄室と名付け、家光もこの小亭を愛しつつも和尚との閑談にふけるのであった。
沢庵和尚を畏怖する家光、家光と沢庵を結びつけたのは宗矩であった。
ところで、家光の兵法好きは有名で、自身も宗矩につき熱心に修行し、残さず相伝されたが・・・、宗矩にはかなわない。そこで、「但馬は、自分の前では結構な出来映えとほめあげ、本気で教えてくれない・・・。自分の兵法が上達するもしないも但馬の分別次第である・・・。」といった手紙を書いている。もっとちゃんと指導して欲しいとの意思表示ではあるが、宗矩の考えは、家光の剣は「権威の象徴たる将軍の剣」であればいいので、若い家光の要求とはズレている。そこで、宗矩は、勢法は全部お教えした、この先は心法が大事と家光を諭したのであった。心法を学ぶには参禅がよい、剣禅一如の境地が大事、その師には沢庵宗彭が適任であると伝えたのである。