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沢庵和尚12

島原の乱平定後は、仏教尊重の風潮が全国的に巻き起こった。しかし、沢庵はこの風潮には乗らなかったばかりか、江戸麻布の柳生邸下屋敷の長屋で修験者のような生活をしていた。また、沢庵はたびたび京都へ、但馬へ帰りたいと願い出ていたた。家光が公然と一大寺を建てたのは、沢庵を縛り付けてしまう、ことが眼目であった。それほど、家光の沢庵に対する帰依渇仰は甚大だった。東海寺が落成した後も、いつ沢庵が故郷に飛び帰らぬものではない、というので所謂「沢庵番」を諸公に命じ、輪番で東海寺門前を守るというありさまであった。
 
さて、家光は、
「けふよりは かすみの衣 ぬぎかへて 心とともに はるる海山」という一首を沢庵に贈った。そこで返歌として、沢庵は
「けふとてや 富士の高峰もつくわねも 霞の衣ぬぎかへぬらし」と詠んだところ、家光は
「中々この方の霞はやらぬ、別に詠まれよ」というので、沢庵はまた一首詠み出でた。
「いく度も かへてきなまし君が代は 岩尾もつきぬ 天の羽衣」家光はことの外ご機嫌であった。
寺領も思いきりつけられたが、沢庵は固く断っていた。そこで、五百石下され、寺僧や下男たちへの扶持として二十俵下されることになった。このほか、家光は沢庵の登城の便宜のために中宿を造った。ところが、この中宿が宏壮で間数が多く、京都鹿苑院(足利義満の禅道場)の僧が沢庵を訪ねた際、その贅を尽くし美を尽くした邸宅を大いに羨望した、とのことである。

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