再び柳生流躰術について2
○大坪先生が指摘する「勝負の世界から脱した、それ以前に争わざる事、争っても自他ともに傷つかず、而して正しい道を体得し、神仏の心を以て人に接し、自他ともに共存共栄の生涯を、よき人生に100%生き得られる社会の建設の一方法としての武道であること。これが殺人刀を活人剣にする方法である。」(「新陰流兵法の神髄」より)との伊勢守の理想を石舟斎が引継ぎ、象徴的な勢法=無刀取り(奪刀法)の完成によって時の為政者家康に大きな感銘を与えたのである。
○この象徴的な3本の無刀取りを使いながら新陰流兵法を将軍の剣に仕立てたのが宗矩である。将の兵法から将軍の兵法へと昇華させたのである。徳川家康の治国は戦争のない政治を目指すものであった。これを沢庵の協力を得て剣と禅の思想から整理したものが兵法家伝書である。人を殺す刀がかえって人を活かす剣であるというのは、乱世においてはこれを治めるために殺人刀(せつにんとう)を用いるが、治まったときはかえって殺人刀がすなわち活人剣(かつにんけん)になるのである。刀と剣を区別したのは、剣が指揮者・上級者の佩剣という意味に加え、諸刃の剣の意味もあるのであろう。
○宗矩は将軍の剣ということで心法を重視し、「居相」等は心法のもたらす結果としたのである。
また、江戸柳生では、十握(十拳)の剣(とつかのつるぎ)=刀身の長さが10握(小指から人差し指までの幅)と定めこれを用いていたようだ。面白いことに、西郷頼母の晩年のあごひげは十握りあった。それで、十握翁とも呼ばれていたのは、偶然か、それとも会津で江戸柳生を習ったのは我一人との自覚から、そのようにひげを伸していたのか、興味深いところである。
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