会津紀行(雑感)13
前回で会津紀行は終わっていますが、その後日談として「会津紀行(雑感)」と称し、補足したかった話などいろいろ書かれていますので、引き続き紹介していきます。
念願の会津行きは終わった。例の堀川幸道の門人である岡本正剛のことで手紙を出し(「岡本正剛著「大東流合気柔術」出版秘話」参照)その立会人にSも入れた。7~9の3か月はY君を(朝日カルチャーセンター合気道教室に)引き留めるため、合気柔術の奥伝(久琢磨伝)を公開し、会報にも稲益氏の名を借りて演武大会之記の中で八光流に対する認識の持ち方などを書いた。これらはSに対応する意味もあった。これですっかりY君も継続させることなった。その後、演武大会の新人賞受賞のための指導を行った。個人的問題もあったがこれの精算もあっての会津決行であった。
決行すればそれなりの実績も必要となる。最大の狙いは十余世武田惣右衞門(久琢磨に授けられた伝書の系譜には、長子武田国継 十余世武田惣右衛門 孫子武田惣角源正義とある。)の墓がどうなっているかであり、武田の名があったかということである。武田家の墓は文化(19世紀初頭)年間のものもあったが、墓石ではなかった。隣にある二瓶家の墓は五重塔もある立派なもので、西南戦争で福島県人の戦死者の中に二瓶幸太郎(若松千石町)がある。
武田家の墓と坂下池田の土地を見てきても武田惣吉が小作人であったことは明白である。和尚の話では「惣角は子どもを置いて逃げた。」とのこと、それが分家である。逃げたことと2年間に3回の西光寺が焼けたこととの関連性があるようだ。
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