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沢庵和尚17

南派の煮え切らぬ態度に対して、北派を代表して抗議書の起草、浄書ともに沢庵の手によってなされた。その文は、無慮三千余言、辞句先鋭、完膚なきまで、当該五ヶ条の御法度に反駁し翻弄した。この文は、幕臣達の読みやすさを考えてかな文字混じりの記載方法としている。芳春院玉室、南宗寺沢庵、龍光院江月の三名連署による上書は、京都所司代板倉周防守に届けられた。寛永5年秋、沢庵56歳であった。翌年、3名は江戸に呼び出される。幕府側は藤堂高虎、崇伝、天海らが鳩首、法度問題を協議した。
崇伝は厳罰を主張、天海は軽罪を進言した。やがて城中で御裁判ということになった。老中方は、沢庵ら3人を引きとらせた後、なおも評定を開いた。松平伊豆守は「なるほど、大宝円鑑国師(春屋)が沢庵をこの伶牙利舌(れいがりぜつ=鋭い口と舌)の漢と称賛したそうであるが、さすがに名僧である。」と感服した様子。そこで、酒井讃岐守も「大坂の残党をかばったということも、慈悲や寺内でのことであってみれば、むげに罰するわけに行くまい。人を助けるのが出家の常というべきではないか。」という擁護論もあったが、幕府の威信ということもあり、衆議の結果、沢庵は羽州上山、土岐山城守頼行のもとへ、玉室は奥州棚倉の内藤豊前守(ぶぜんのかみ)信照の手元へ流罪とされた。ただ、江月和尚は崇伝のつながりがあったことから赦免となった。この決定に、重要な役割を果たした金地院崇伝は、民衆の間で、崇伝の山名や寺名で呼ばれずに「大慾山気根院、僭上(せんじょう)寺」といったり、「悪国師」と呼んだりした。また、民衆ばかりでなく、細川忠興がその子忠利に報じた文中には「金地院取沙汰之事、日本国上下万民悪口申候。苦々しき候事・・・」とあって、世をあげて黒衣の宰相崇伝を罵倒したことは当然の成り行きであった。

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