大東流伝承の謎3
Q3:残された歌の真相は何か
A3:「残された歌」とは、保科近悳(西郷頼母)が惣角に送った短歌
「しる人や 川の流れを打てばとて 水に跡ある 物ならなくに
明治31年5月12日 霊山神社宮司 保科近悳(印)」である。
歌の意味としては、「世の中に知っている人はいるだろうか、川の流れを打ったところで、水にその痕跡が残ることはない」ということだろう。
この解釈は、いろいろ考えられる。一般的には「奥義(合気)を水の流れに託して伝えた」ものとすることが多いようである。敵の攻撃(力)を川の水のように流す、流れの中に巻き込めば敵を包み込むことが出来る・・・要は敵を無力化することを教えているとする解釈が多いようだ。世の中に広まっている合気の定義の原典の一つであろう。
これは、人生訓とも解釈できる。「川は流れているから、そこには同じ水はない、万物は流転するのだ」
多くを語らず、様々な解釈の余地がある短歌を通じて、大東流技法の解釈のあり方を示唆したもの、であろう。
Q4:榊原鍵吉は武田惣角の師か
A4:武田時宗氏は「会津藩主歴代継承された小野派一刀流を渋谷東馬に学び、直心影流を榊原鍵吉に学び更に各武術に励み、各地に武者修行をして歩いた。」と記している。
渋谷東馬(天保3(1832)~明治4(1904)年)は会津坂下(ばんげ)町で藩医の3男として生まれ渋谷家の養子に入った人物である。小野派一刀流を極め惣角の師であったがその系譜は不明である。なお、「会津藩主歴代継承された」との記載も正確ではないが、ここでは触れない。
榊原鍵吉(文化13(1830)~明治27(1894)年)は幕末から上野下谷車坂(台東区上野)に道場を開き、晩年まで直心影流の指導をしているが、惣角が門人であったという記録はない。
武田惣角自身は、英名録にあるとおり渋谷東馬門人であって、後に保科近悳(西郷頼母)門人であるという認識だ。
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