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合気柔術のはじまり6

(流れとしては「合気柔術のはじまり3」の続き)
一方、大本教との関係の深い立場上、大日本武徳会「合気道」の考え方に不満を持つ植芝守高(盛平氏の改名)先生は、自信の流名を天眞合気武道と改名した。更に武産合気と改名した。また、親和体道道主となった井上方軒は、かつて植芝守高先生が理想とした宗教武道の方向にまっしぐらに前進していった。
終戦後、財団法人皇武会の財産は凍結され、皇武会は活動停止となりましたが、その財産を承継する形で昭和23年に財団法人合気会が新たに認可を受けたのでした。道主植芝盛平として「合気道」の名称の下、その普及活動に入ったのです。
 
昭和24年4月には、静岡県内に道場を持つ望月稔先生が、柔道の普及のため渡欧し、柔道の講習とともに初めて合気道を欧州に持ち込んだのです。約2か月間の欧州行でしたが、合気道がそのまま定着するには至りませんでした。

以上のような歴史を踏まえた「合気道」ですが、戦前は入門者の制限等もあり、世間一般に知られるものではありませんでした。戦後、爆発的に世間にその名が知られるようになったのは、昭和28年4月新装なった東京体育館で催された各流武道演武大会からでした。同大会に特別参加した塩田剛三先生(現在合気道養神館館長)が、一万余の大観衆の目前で、多人数取り合気道の妙技を初披露したことが直接の切掛となったのです。その後、財界等の後援を得た塩田先生の活躍でマスコミに便乗する突破口を開いた功績は非常に大きいものがありました。

ハワイにおいて、日本のニュースに飢えていた一世・二世たちは、ハワイ二世が編集する新聞に外電ニュースとして、日本の古武道大会において「合気道」なる振興武道が一番人気があった旨の記事が写真入でデカデカと掲載されました。

そして、ハワイのテレビ局からの問い合わせが、財団法人合気会に届き、昭和29年その説明役として新進の藤平光一氏が派遣されたのです。これがハワイ合気会の地盤となりました。もしこの時、ハワイからの召喚通知が、直接のニュース提供者であった塩田先生に渡っていたならば、現在の海外における趨勢も大幅に変わっていたものと思われる。なお、藤平光一氏の著書「合気道」に出てくる合気体操法の各種は、同氏のハワイ指導の教訓をもとに初心者用に創案したもので、いわば藤平流と称すべきものである。

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