名人植芝盛平先生の面目1
今回紹介するのは、望月稔先生の筆による植芝盛平先生の逸話です。文中、昭和6(1931)年とありますから、筆者23歳、盛平48歳牛込区若松町に皇武館が竣工したころの話しです。導入部については、事実誤認と話しを盛っていると思われるところがありますが、この部分については特に注釈等せず、そのまま引用します。なお、望月先生は、後に合氣道八段・柔道六段・空手道四段・居合術錬士にしてフランスの武術も研究された武道の達人になられたのです。
名人植芝盛平先生の面目
合氣道八段 望月稔
植芝先生、盛平と称し後、守高といい、更に常盛と号せられる。紀州田辺の産、幼少より家伝の武技に長じ、後銃剣諸流にわたり、特に大東流合気柔術を武田惣角に学び、出藍の誉れあり、ついに一流を創立して「合氣道」と呼ぶ。先生5尺2寸(157.56cm)の小兵といえども胴回り4尺(121.2cm)を超え、非凡の体力はよく80余貫(300kg)の物を負うて走ることを得たり。しかも、若年より信心極めて厚く、惟神の道(かんながらのみち:神の御心のままに人為を加えない日本固有の道)を出口王仁三郎に受けその高弟として師の満蒙巡錫(じゅんしゃく:各地を巡り歩いて教えを広める)に選ばれて随行せしは大正の後期(大正13(1924)年)なり。(続)