秘伝・合気道 堀川幸道口述 鶴山晃瑞編 9
(承前)合気道の原種となるべきものが、初めて世間に公開されることになったのは、旧会津藩元国家老西郷頼母の要請により武田惣角大先生が会津藩御式内を全国で巡回指導されたことがきっかけです。各地に教授代理が置かれるまで布教伝承をされておりました。これらの事跡は大先生の遺書である英名録に教伝を受けた門人達が自筆で記名捺印しております。
それでは、なぜ大東流合気柔術の名称が一般に知られていなかったのでしょうか?
その理由は、同じ明治末期に公開された柔道や剣道は大衆化(誰でも習うことができる)され、集団指導スタイルがとられたのに対し、武田惣角大先生は古伝による伝承方法(個人指導)に忠実だったからであります。(続く)
解説 英名録に記載がありますが、惣角は最初小野派一刀流渋谷東馬門人として、活動していました。保科近悳門人となって以降、剣術ではなく、大東流柔術を教伝して歩いたのです。このあたりのことは、別稿「大東流柔術の秘密」をご参照ください。
個人指導も簡単に受けられるものではなく、2名以上の紹介者があって初めて教伝を受けることが出来たのでした。なお、皇武館も入門者を制限していたようで、同じく2名以上の紹介者があって初めて入門できたようです。
教授法については、佐藤金兵衛氏の「合気叢談(あいきそうだん)」に、
「惣角先生の教授法は一風変わっていた。入門希望者があると、その予算をきいて、納めた金額の分だけ教えたという。それで1回技をかけて、次に弟子に手をとって1回教えながらかけさせて先に進み、決して繰返し教えるということはなかった。しかも教授料は極めて高額であって、余程の高給者か資産家でなければ全技修業までは進めなかったという。この教授法を真似て、一週間で師範免許というキャッチフレーズで売り出した、大宮市(現さいたま市)の八光流の奥山吉治(龍峰)先生は、武田惣角門下の松田敏美から破門された人である。
山本角義先生は晩年よくお仕えして、大東流のことごとくを親切に指導していただいた。その折りによくいわれて、日々『丁寧によく教えても、気の利いた奴は合気道、八光流とかいって、自分で発明したような事をいって金もうけをやるからナ』と。それで覚えても覚えなくとも、1回かけて1回かけさせ先に進むという教授法をとっていた。」とあります。
惣角は大東流を教伝する対象者を絞っていましたから、しかるべき人の推薦があり一定程度の教授料を払える人、という惣角なりのルール(おそらく西郷頼母の助言)に従っていたのでした。
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