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武道感の大事

「私は武道を勝ち負けだけで考える人は嫌いだ。」
「私は、そういう視点を認めない。」

「一つの流儀・術理に打ち込むことが大事だ。」
「いや、武術はいろいろ同時に学ぶ方がいいでしょう。」

「武術家はみんな、自分が知っている術を守ろうとして教えない。」
「あなただって、そういうところあるでしょう。」

このような、意見や主張のレベルでやり合っても、かみ合っていないし、単なる言い合いで建設的な対話にはなりそうもありませんね。
さて、私たちは日本という場所、悠久の歴史の中にあってその影響から逃れることはできません。こういった歴史背景をもとにそれぞれの武道感が醸成され、上記のような意見や考え方が生まれるのでしょう。
殺伐とした時代の武術、戦のない時代とするための武術、戦のない時代における武術、それぞれ武道感、人生観や世界観が違っていて当然です。
上記のような歴史観や観念がないなかでの、自分の理解できる範囲における、その場その場に応じた主張は、ともすれば発言者の自覚の有無がないまま矛盾した言説が発せられ、混乱や無用の対立を招くことになりかねません。趣味の一つの武道であってもその内在する攻撃性を理解しコントロールしなければなりませんね。
さて、ここでいう観念とは、武術の本質と言い換えることが出来ます。では、本質とは何でしょう?
大東流を一つの樹に例えると、太い幹に多くの技法群(枝葉)がついています。ここで大切なことは、枝葉たる多くの技法群を幹と勘違いしないことが重要なのです。枝葉は枝葉であって他の技、それ以上の展開が見えなくなるからです。ただ、技(枝葉)の多さは重要なことで、これがあってこそ太い幹が育つからです。
大東流的な整理をすれば、柔術によって体の基本的な使い方を覚え、合気によって戦わずして勝つ境地に至る、ということでしょうか。

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