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武田時宗・宗家独占インタビューについて25

武田時宗『武田惣角見聞記』を読む3
(承前)少年時代に『武芸小伝』を愛読したが、一種の武道通、よく言えば博識になったけれども実技の方はさっぱり進まず、祖父から書痴(しょち:耽読癖のある者に対する蔑語である。古い中国文学者の間では流行した)と大喝され、一撃で倒された思い出がある。
後年、著名な考証家の“二人の武蔵”に関する綿密極まりない論文を読んだことがあったが、円明流についてはもちろん、二天一流についても、二人の武蔵の武道の違いについて何一つ学べなかった。考証家の主張にも一理があろう。だが、究極は実体(武道の場合は型)を知るため進歩発達の実状を知るための研究ではなかろうか。また、数百の流派名を知り、その系譜を暗記しようとケシ粒ほどの価値があろうか。我々が知りたいのは、流祖あるいは優れた武道家の思想(武道の原理)と型(かた・わざ)である。

さらに「②武勇伝を主体にした稗史野乗(はいしゃじょう:正史に対する民間の歴史書)、巷談(軍記物)。今日の小説に当ろう。」については、近代美学の助けを借りなくても、芸術の世界が無の世界であることぐらいは周知の知識だ(俗に言う絵空事、紙に書いた餅のようなもの)。ところが、まじめに小説本から剣技に関する描写を引っ張り出して訊ねる武道家に苦笑する暇も無く、カメラアイで映像化された殺陣(たて)をあれこれ議論の的にする人が意外に多いことは、武道の修練よりも一般教養の面に問題があるようだ。
もっとも武道の教えるところは、“虚(想像上の真)”と“実(実体物)”との分別にあり行動である。簡単であるが、深い概念を含んでいるのだが…(続)

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