土方二百人と惣角一人の大喧嘩2
慶応3(1867)年10月大政奉還、明治2(1869)年の版籍奉還によって約七百年続いた武家政治が全面的に崩れ、明治4年には従来の藩を廃して県が置かれ、全国の知藩事を全員東京に移らせ、新たに人材を選んで府知事・県令(後の県知事)を任命した。そのため県知事を始め県政の首脳部は中央政府から一方的に派遣され、地方の実情に即していないことも多く、従ってその弊害も大きかった。
県令三島による、福島県下の国道工事は県民を動員する計画であったが、2月着工という季節的な事情と政治的な目的が影響して工事は進まなかった。そこで、江戸時代からの慣わしから東京の元締めが工事を入札、博徒の親分が人工を集めて工事を進めるという方法によっていた。明治初期の土木工事は、地方によっては囚人を使用したり、食い詰め者を集め「たこ部屋」と称された組単位の請負業者が多かった。組印の半纏(はんてん)を着用しているのは、人夫の逃亡を監視するための博徒、中には浪人上がりの用心棒もいる。明治になって世の中はぐんぐん変わって、チョンマゲを斬り捨てザンギリ頭の兄さん達が、戊辰戦争ですべてを失った県民達をあざ笑うがごとく、勝ち誇った顔で通行人をからかいながら土木工事をしていた。
そこを背格好が5尺足らず(140cm)の武田惣角が、近ごろめずらしい撃剣道具を仕込み杖に引っ掛け肩に背負って通りかかった。