大東流-武芸流派大事典5
(承前)それにより惣角は保科の言を墨守し、会津藩の名をはずかしめぬようにと最初は大東流柔術本部長、後年には大東流合気柔術総務長を名乗り、生涯を通じて宗家・何代目とか名乗ったことがなかった。なお、惣角流・日本伝合気柔術参照。
(付記)大東流合気武道宗家の武田時宗述「会津藩秘奥御式内に就いて」の一節にいう、「大東流合気武道は新羅三郎源義満以来甲斐武田家に伝来する秘術にて、天正元年4月12日武田信玄公他界し、一族武田国次、信玄の遺書を持って会津に下向し、(中略)芦名盛公に仕え小池の地頭となり、以来会津武田家に伝来された。この秘術を会津藩御式内と定め、藩主・家老・重臣・小姓等奥務者に習得させた護身武芸である。武田国次の末孫武田惣角は会津御池の御伊勢の宮の屋敷に生まれ、(中略)神職であった兄惣勝が明治9年春死去。同年秋祖父惣右衞門の高弟であった都々古別神社宮司西郷頼母改保科近悳の許で神職見習いに入るが、(中略)明治13年秋田東照宮副宮司を勤めて居られた保科近悳師に身を寄せ、会津藩伝来の秘奥御式内の伝授を受けながら、二荒山を修行地に心身鍛練の難行苦行に努めたのである」。」
「史伝西郷四郎」と題する鶴山先生のメモから
牧野登著「史伝西郷四郎(昭和58年8月島津書房)」の221~226頁に大東流合気柔術の項があり「武芸流派大事典(昭和53年の増補大改訂版)」からの引用文が載っている。この改訂版は私(鶴山先生)が出した資料に基づいている。旧版は新人物往来社から出ているが、この時は時宗氏から出た資料をそのまま使っていた。一般の人は「武芸流派大事典」の存在など知らない(知っていても高価なので買わない)のであるから、この本で大東流の歴史が紹介されたことの価値は有意義である。
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