『武道論考』批判1
武道学の研究者であった中林信二氏の遺作『武道論考』に掲載された論文ついての鶴山先生のメモです。
渡辺一郎氏の門人、中林信二(筑波大学体育科学系助教授)の一周忌を記念して『武道論考(昭和63(1988)年1月)』及び
『武道のすすめ(昭和62(1987)年11月』が遺作集として発刊された。
その『武道論考』の85頁に「日本文化としての武道-その技術観と人間観-」と題する小論がある。そこで「武道の技術は、その運動形態からみると闘争的運動であり、一対一が直接的に技を競い合う対人運動である。」と定義してある。中林氏によれば「対人運動の技術というものは、個人対個人の相互作用の中で成り立つもので個体の運動としての技術ではない。」となる。ここには、同氏の考え方か?現代武道を美化するため道元(私(鶴山先生)の一番嫌いな人)の考えをもってきているようだ。
また、小論の終り近くでは『兵法家伝書』が引用されているが、それは上巻「殺人刀」から“事をつくす”の部分のみで、現代剣道の発想から来る型の考え方(技術論のみ)で、進履橋の三学・九箇・天狗抄がなぜ定められたか、分類されたかといったことに思い至っていない。