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柳生宗矩実戦経験(上)

鶴山先生は大東流の研究を終え本格的に新陰流を研究し始めていました。その中の歴史研究編である「新陰流考」と題する論考やメモの中の一つです。メインの話題は有名な逸話ですが、新陰流ファンには何度聞いても納得の話しです。読み物として御覧下さい。
 
柳生又右衛門宗矩(後、但馬守)は柳生宗厳の5男(5男6女中の第8子)に生まれた。母は隣村、興原遠江守助豊の娘で、春桃御前と呼ばれ賢夫人として知られた。なお、宗厳も天正3(1575)年に公叙位の沙汰で但馬守を受けている。
宗矩が生まれた元亀2(1571)年、長兄厳勝(長男は尾張柳生家初代利厳)当時19歳は、父宗厳とともに松永久秀配下として筒井順慶攻めに参加し、辰市城の戦いで重傷を負い、武術の道を諦めざるをえなくなった。
宗矩24歳になった文禄3(1594)年宗厳の剣友(上泉伊勢守秀綱門人)の松田某が柳生家に隠田ありと密告した。豊臣政権下の検地が徹底されていた時代、宗厳の所領は全部没収され家運が傾いていた。同年、宗厳と宗矩が聚楽紫竹村(京都大徳寺近郊)で剣術の神君上覧を果たした。これにより宗矩が徳川家に出仕することとなり柳生家に光をもたらした。

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