見出し画像

秘法・合気術の歴史を語る(下)

砂金が出たとの報が伝わると翌7月には砂金掘りの経験者と凶漁に呻吟(しんぎん=苦しみうめく)していた漁民等3~400人が密林に入り込み、毎日1匁(約3.75g)から1匁半の収穫があった。(1円相当、明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円だったといわれています。)明治30~31年は餓死者が出る危惧もあったような凶漁であったのに、砂金ブームが到来すると、32年は昆布の豊漁にもかかわらず、誰も見向きもしなくなり腐るにまかせたというのであるから、当時の砂金熱がしのばれる。なお、枝幸の「え」はアイヌ語で食べるで、「さし」は海藻のこと、「我らの食べる海藻のあるところ」の意味で、昔は枝幸沖の岩には昆布が多くあったことからこの地名がある。
その後、泰宗は湧別(ゆうべつ)村に移転し、金物、薬種商(薬を調合販売する店)を営み、明治41年から二十数年間、湧別駅逓(えきてい=宿泊・人馬継立・郵便などの業務を行う所)を経営した。
さて、大武術者武田惣角先生を開拓間もなき北海道に呼んだのは、
明治43(1910)年7月秋田県警察部長から北海道全道警察部長の要職を拝命した財部実秀(たからべさねひで、当時35歳)氏であった。なお、財部氏については、明治42年の英名録に 秋田県警察部 警察部長警視 財部実秀 とある。
当時の北海道は開拓事業に必要な人夫供給の役割を担っていた博徒が幅を利かせ、官憲を無視しその非行は目に余るものがあった。財部は全道の警察署長を集め、武田惣角大先生の大東流柔術の習得を薦め、自らも防具を身につけ剣道の指導を行った。武術のできない署長は転任させると標榜して、全道の警察署長を督励した。こういった事情で、武田先生(当時50歳)は明治43年から財部部長の任期一杯の大正元年まで北海道の警察署を巡回指導されていた。
大正元年の英名録には、網走警察署長 山内鉄蔵 外署員一同
           網走監獄 看守 赤間政治 外一同
           網走尋常高等小学校 訓導 松本三千雄 外
大正2年 下湧別村 渋川流 堀川泰宗
          佐川子之吉(佐川幸義の父)
財部部長の栄転を機会に、武田先生は警察の指導の届かなかった北海道奥地へ指導の範囲を広げられた。
このような中、武田先生はホタテ貝大漁の見物のため湧別に現われ、湧別駅逓に宿泊したことが機縁になって、泰宗は惣角の門人になったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?