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沢庵和尚14

さて、江戸に呼ばれた沢庵は、家光から大徳寺諸法度(元和の法度)のことを聞かれた。
 
時は、将軍秀忠の時代、元和の法度から12年経っていた。突如、疾風の如く大徳寺と妙心寺の二寺は幕府から厳酷な示達を受けたのである。沢庵はこのとき55歳であった。老中土井利勝の邸内で板倉重宗(京都所司代)や黒衣の僧といわれた崇伝その他の者が落ち合った。板倉の手で元和の古い法度を持ちだし、それよりさらに厳しい制規を定めて大徳寺と妙心寺を処分することとなった。これは二寺が豊臣の残党をかくまったり、院内の三玄院に石田三成の墓を建てているとする情報に基づくものであった。
、諸宗出世の儀、先の元和の令に違背し、濫(らん)なる由の聞きあるによりて、三條中院両伝奏(天皇などへの取り次ぎ)を経て、叡慮(えいりょ=天子の気持ち)をうかがい、かの令以後、出世のものはこれを止め、更にその器量により選抜すべきこと。
、各寺院の伝奏なるものは、かの元和の令に違背せるものを濫に執奏(とりつぐ)すべからず。
、五山衆として、紫衣、黄衣(こうえ)、西堂(他寺の住職から移ること)等の将軍の公帖(こうじょう=任命辞令)を有せざるものも、元和以前のものに限り赦すべし。
、百万遍清浄華院、黒谷(金戒光明寺)等により執奏するものは、増上寺及び知恩院を経由すべし。
このように幕府は、諸寺院出世入院等に対し大干渉をあえてしたのであったが、わけて大徳寺と妙心寺の二寺は、「参禅修行就善知識、三十年費綿密工夫、千七百則話頭了畢之上」しかるべき手続きを経て入院すべき規定を厳守せよとの命で、ここに一大騒動を起こすに至ったのであった。

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