公武合体と大東流1
公武合体のための新武術が編成された背景と、それが後に大東流と名付けられ公開された事情については、鶴山先生のメモがたくさん残っています。それぞれに読むべきポイントが違っており、内容が全く同じ、ということはありません。このnoteにおいても、多くのものを紹介していますが、本稿もその一つです。
武田惣角の父惣吉は、幕末期に半年ほど(臨時雇いの)下級武士に取り上げられた人物である。力手組の小頭であり、草相撲の大関か小結ということがそのことを証明している。会津藩では武士は草相撲の大関などにはならないからである。
惣角はその英名録によると、明治28年ごろまで、会津藩士 小野派一刀流 渋谷東馬門人として、各地を巡って試合をしていた。相手に勝った場合に記名させていた。渋谷東馬(天保3(1832)~明治4(1904)年)とは、幕末期に会津坂下(ばんげ)町で町道場を開いていた人物である。小野派一刀流で、その系譜ははっきりしないところであるが、英名録の記載から推定すると、おそらく中西派の竹刀打ち(撃剣)であろう。町道場の撃剣であるから、誰でも習うことが出来たのである。会津藩士が習う溝口派一刀流とは別系統であった。惣角は父が会津藩士ではないから、日新館に入れない。また、惣角は明治元年(1868)年では、9歳だったという年齢を考えても、無筆文盲ということから、百姓ではあり得ても、武士の家系ではないことは、はっきりしている。なお、その後、惣角は坂下には近づいていない。
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