宗矩の一万石と宗冬の一万石
宗矩は兵法指南役に採用(推薦、当時24歳)され、その後42年かけて大名に取り立てられました。一方、息子の宗冬は柳生家当主(旗本、当時38歳)になってから18年かけて大名の地位を復活させました。この秘密に迫った鶴山先生のメモです。
兄(十兵衛三厳)に代わって、家法、家禄をつぎ恵まれた生涯を送ったとされる宗冬ですが、大名の地位を復権した功績とは何だったのか、鶴山先生独自の分析です。
柳生宗矩は寛永9(1632)年に総目付(=大監察、後の大目付)になった。老中支配下のもと大名と幕政全般を監察することを職務とする役職ではあるが、別格だったようだ。宗矩は「伍の字の差物」を許されており、これは殿中で大太刀を持つことができる特権であった(江戸城内では老中、大名でも小太刀のみが常識)。一方、宗冬は大目付にもなっていないし、「伍の字の差物」を許されていなかった。にもかかわらず、一万石の大名に列せられたのはなぜか、それは宗矩の「大監察」に対し、宗冬は戦略的な「探索」役であったからだ。わかりやすく言えば、隠密や密偵と同様に情報収集をする役目であるが、伊賀・甲賀者が務めた時代彼らの身分は低かった。後に御庭番(吉宗の家臣)として有名になった役職と似たようなものだ。
家光の時代には幕政も安定し、かつて(宗矩時代)のような伊賀・甲賀者などを使った情報収集は出来なくなったのである。そこで、宗冬は情報収集(謀報)として喜多流猿楽を利用したのである。喜多流は江戸初期に幕府に認められた新興の能であり、流祖喜多七太夫長能(しちだゆうながよし)~宗能(むねよし)らは能を表とし、裏として情報収集を担っていたのである。七太夫は金春流を学んでおり、金春禅曲(八郎安照)の娘を妻としている。なお、禅曲の息子は七郎氏勝で柳生石舟斎宗厳から「新陰流兵法目録之事」と絵目録を授けられた新陰流の達人であった。こうしたつながりから大和柳生独自の情報収集を行い将軍に直接言上することができたのである。将軍家が好んだため喜多流の能を各藩も重用していた、これによって諜報活動も円滑に、かつ、効果的に行えたのである。平和な時代に即した情報収集を確立した宗冬の功績であろう。これにより宗矩と同格になったのである。
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