大阪本社に伝わる古武道 大東流(朝日流)合気柔術4
満5年以上たったある日、大阪本社の玄関に目つきの鋭い老人が現われ「植芝盛平に合気柔術を習っているそうだが、あれには十分に教えていない。習うのならわしにつけ。我こそは大東流合気柔術総務長武田惣角源正義である。」と名乗りました。大東流の存在すら知らなかった久さんは「とても信用できない」と警備課員に立ち合わせ、自分はこっそり見ていたところ、その技の鋭いこと「こりゃ本物だ」と丁重に迎えましたが、植芝氏へのこれまでの義理もあり、朝は植芝氏、夜は武田氏についてしばらくやっていましたが、植芝氏の方から辞され上京されてしまいました。植芝氏は以後、海軍大学の武道教授などをされますが、戦後、それまで当身、投げ、極め技が三位一体だった大東流合気柔術を、投げ技中心に再編され、当身、極めなどのうち、危険なものを省いてスポーツ化され、合気道の名で普及されました。
武田惣角氏に巡り合った久さんらは、以前にも増して厳しい稽古に明け暮れ、昭和13年久さん、刀禰舘正雄(業務局長)、原田文三郎(編集庶務課長)、吉村義照(守衛長)、中津平三郎(守衛)、阿久根政義(守衛)、河添邦吉(守衛)さんの7人が秘伝を許され、翌14年3月には久さんが免許皆伝を授けられました。武田惣角氏から免許皆伝を許されたのは久さんだけで、実子の時宗氏にも許していません。
補足 「7人が秘伝を許され」とありますが、昭和11年6月から昭和14年3月まで全5回の集中講習が行われ、昭和14年に久、刀禰舘に免許皆伝、他は教授代理を授与されています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?