八方分身之事
八方分身は、大東流皆伝技法(口伝)です。
技法の概要は、「敵8人が車掛の陣を組み一斉に時計回りに動く、我は反時計回りに動く、敵は機を見て一斉に切り掛かる、我はこれを抜け…」というものです。
八方分身の伝承については、鶴山先生の覚書によると次のとおりでした。
昭和7年ごろ植芝盛平が合気道の極意として八方分身を初めて公開した。(「図解コーチ合気道」P18の写真、「武道練習」(植芝守高(盛平)著)の口絵参照)
その後、鶴山先生は、植芝門下では誰も演武等していないことを確認し、盛平の演武を見学するなどしてこの技を研究しました。その結果、
①攻者の方で気合を掛けるのではなく、盛平が気合を掛けると、それを合図に攻者が攻撃している
②回転しながら抜けている
③ただ抜けるだけだが、攻者が相打ちになる、ということを解明し、技を完成させました。
鶴山先生は昭和44年8月24日にジャック・ルコック夫妻のために日本伝統古武術を演武した際に八方分身を公開しました。
このとき立合った久琢磨先生から「鶴山君あの形は間違っているよ。」と言われました。久先生は武田惣角先生から「この口伝は大東流皆伝の資格になるので、その後継者でなくては教えてはいけない。」と言われたのだ、とのことで、久琢磨先生はその言を堅く守っていました。
その後、鶴山先生は昭和52年11月に皆伝を受けた際にその全容を知ることとなり、現在に伝わっています。
八方分身とは、元々一刀流の秘伝であり、一刀流兵法の本目録に「八方分身須叟転化欲在前忽然而在後(図略)」とあります。
会津戊辰戦の中、溝口派一刀流師範樋口早之助、同流の達人であった林又三郎らが戦死した状況下「我(菅野権兵衛)今死なば流儀の奥秘全く断絶せん。かくては遺憾の極みなりとて口頭にては勿論、扇、火箸などを刀に代えて立合い、丁寧に流儀の秘伝を宅右衛門氏に伝えた。」(「井深梶之助とその時代」第1巻P158、西郷頼母(保科近悳)は井深宅右衛門(梶之助)の妻八代子の兄である。)
なお、溝口派一刀流の達人菅野権兵衛(会津藩上席家老)は、会津藩の首謀者(責任者)として、松平容保の身代わりに明治2年5月18日保科家で割腹しました。
これが、「箸と徳利、又は扇子」の口伝(八方分身のこと)といわれるもので、井深宅右衛門から後世に伝えてほしいとの趣旨により西郷頼母に伝えられ、さらに武田惣角が引き継がれたものでした。
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