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西郷頼母と大東流6

竹下大将と浅野中将は昭和17年に日比谷公会堂で開催された古武道大会において「大東流合気柔術」のカンバンで演武されている。そして、この竹下大将が財団法人皇武会(後の合気会のこと)の会長であり、終戦近くまで務めた。大本教に関わって以降、植芝盛平の影の立役者は浅野中将であったのだ。

さて、惣角の「英名録」と「謝礼帳」の存在意義は、惣角という武術家としていくら謝礼をもらいたいか、という相場を呈示するものでもあった。惣角の1回の講習謝礼は10日間で10円として設定されていて、明治から昭和まで金額は変えていない。頼母が惣角の生活方針を決め指示したものと思う。惣角からすれば足を向けて寝られない人であったハズである。

ところで、時宗氏の話によれば、惣角が一番大事にしていたのは新陰流の巻物であった。世に武田惣角門下の者は、惣角が身から離さず死せるまで持っていたボロボロの巻物を大東流の極意書として、垂涎の的だったのである。惣角自身も、そのことを周囲にほのめかし、山本角義にも語ったそうだ。この人も字はあまり読めなかったようで、青森の旅館から惣角死亡の連絡を受け、遺品を受け取りに行った際、巻物の内容はよくわからなかった、と聞いている。

この新陰流兵法の巻物が大東流の秘密を解く鍵となる。これは江戸柳生の進履橋であるからだ。当時、会津藩で江戸柳生を知っている人は西郷頼母しかいないのである。会津日新館では教えていないし、国家老も習えるものではなかった。塩田流(柳生十兵衛三厳から会津藩柳生流として毛利氏→塩田権六昭矩と伝承)があるが、水野神刀流と統合され江戸柳生とは別物となったからだ。

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