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伊賀と甲賀9

一方、伊賀は…
鎌倉幕府誕生のころ、伊賀国は東大寺の荘園に属していた。源頼朝は幕府が存続する限り東大寺の権益を保護する旨約定を交わした。これは平家討伐軍を京に入れる際に、兵力の損耗を恐れ東大寺に協力を求めた代償であった。その後、室町時代になると仁木(につき)氏が守護となり治めていたが、支配力は弱く地侍による自治が進んでいった。
 
『伊賀者大由緒記(江戸時代)』によると、織田信長(総大将は信雄(のぶかつ))による伊賀攻め(天正伊賀の乱:天正9(1581)年)の際、伊賀から服部の一族を引き連れ徳川家に従えたとされているが、このときの年号は永禄9(1566)年と記載されており、史実とは異なっている。『寛政重修諸家譜(幕府編集)』によると服部半蔵(正成)は弘治3(1557)年16歳の時、三河宇土城の夜討ちに初陣している。正成の父は保長といい伊賀出身で三河に移り松平清康・広忠(家康の父)親子、そして家康にも仕えている。正成は、新宿区若葉町西念寺の墓石の銘によると天文11(1542)年三河国に生まれ文禄4(1595)年11月14日、55歳で亡くなっている。豊臣秀吉の死の3年前であった。正成の死後、長男正就(まさなり)が18歳で54石を二男正重が34石を分割相続した。正就は伊賀出身の伊賀衆との確執などがあり徳川秀忠が征夷大将軍となった慶長10(1605)年にお役御免(改易)となった。配下の伊賀同心は、足軽組頭大久保忠直らの下につくことになった。

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