柳生宗矩一族と松平信綱6
ところで、猿楽(能)は、室町時代から足利義満など時の権力者の庇護を受け、武家社会の発達と供に発展した。秀吉・家康供に猿楽の愛好者(宗矩も)だった。この時代は大和猿楽四座(観世座・宝生座・金春座・金剛座)が中心であった。同じく猿楽の愛好者であった秀忠は金剛座の北七大夫長能(しちだゆうおさよし)をひいきにし、北を喜多姓に改めさせ喜多流の創設を認め、現代に続く四座一流の体制が整ったのである。猿楽は家光も愛好し、大猷院殿御実紀に猿楽鑑賞の記録が多数残っている。
猿楽は徳川幕府の式楽(儀式に用いる音楽・舞踏)とされ、諸大名も将軍にならって喜多流猿楽を支持し役者を自藩で雇うなど庇護したのである。具体的には、諸藩の江戸屋敷において演能や稽古、弟子の斡旋が行なわれ、これに伴い諸藩で行なわれる際の出演料・道具の鑑定料・免状発行料などを関係大名が費用負担していた。猿楽の楽人は寺社奉行(識職)の所掌であったが、老中の管轄から4代家綱以降将軍直轄の扱いとなっている。こういった背景を利用して、情報収集のために喜多流猿楽を隠れ蓑に使ったのである。
信綱の死後、宗冬は春日大社の敷地内に私財を投じて能楽殿を建立している。ここで年1回全国の能楽師を集めて喜多流猿楽の大会を開いていた。これ以外にも春日社の祭礼に併せて諸行事を行なったようだ。
このような功績により、宗冬は宗矩と同レベルの時勢に合った新たな情報収集体制を整えたとして、加増を受け総石1万石となり柳生家を大名に復活させたのである。(完)
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