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沢庵和尚9

「宗彭様、大坂方とか徳川方とか、治政の剣、忠の働き、どこか違いますか。これを明らかにするには、どうすればよいか」
「真に御身の疑念は当然だ。本来ならば、治政に大坂方も徳川方もない。天下は二分されたにせよ、天に二日はない。ところが現在の世の天下の有様は全くそれに反している・・・臣下の我々は、お互いに同胞である。兄弟であるにもかかわらず、互いに殺戮し合い、欺瞞し合わねばならぬということは、まことに嘆かわしいことじゃ。」
 
三玄院に落ちのびて1年薫甫(きんぽ)師が入寂すると、宗彭は春屋のもとを離れ、建仁寺派の学僧文西洞仁について修行、文西が寂する後、堺の南宗寺の一凍紹滴和尚につき禅道を極め、大悟し慶長9年(1604)年32歳のとき、印可証明とともに「沢庵」の号を授けられた。

その後、10年目、慶長19年大坂冬の陣勃発、大坂城の堀が埋めたられた頃、翌元和元(1615)年5月大坂夏の陣があり豊臣氏が滅亡した。大坂城落城後、5月8日に家康は入洛二条城に入り、同10日には二代将軍秀忠も二条城に着いた。ここに「元和の法度(寺院法度)」が出された。これは金地院崇伝の差し金である(実際起草者であった)といわれた。崇伝は南禅寺を背景とし、大坂方に味方した大徳寺や妙心寺を目の敵にしていたのだ。これが後(寛永6(1629)年)の紫衣(しえ)事件につながり沢庵は流罪とされたのである。

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