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再び柳生流躰術について3-柳生十兵衛三厳-

○宗矩の息子十兵衛は、父のスタンスに不満があったようだ。三代将軍家光時代に入り、徳川家安体の体制が整いつつある中、実理主義者であった十兵衛は心法重視の傾向に不安をいだいていたのだ。

ここで、柳生十兵衛三厳ついてまとめておく
十兵衛は慶長12(1607)年宗矩の長男として柳生の里で生まれた。石舟斎が没した翌年で、その生まれ変わりか、といわれたようだ。兵法に天稟(てんぴん:生まれつきの才能)をそなえ梟雄(きょうゆう:残忍で勇猛であること)であったと、『玉栄拾遺』に記録がある。
10歳にして、将軍秀忠に拝謁し、13歳で家光(当時16歳)の小姓として出仕している。
そして、寛永3(1626)年10月、将軍家光の勘気(かんき:目上の人からとがめをうけること)により致仕(ちし:官職を退く)した。以降32歳までの12年間、再出仕(御書院番)していない。

この12年間に十兵衛は、幕府(大監察宗矩)の命を受け隠密行動をとり諸国漫遊の際、各大名の動静を探索したとされ、早くも江戸時代後期から講談・小説・映画・テレビと取り上げられ、有名になっていた。『玉栄拾遺』の「一旦故ありて、相模国小田原に謫居(たっきょ:罰を受けてひきこもる)したまい、なお諸州を経歴ありという」あたりが噂の根拠かも知れない。
昭和36年刊の村史『柳生の里(柳生村史編集委員会編)』には「そして諸国漫遊の旅に出た。京都から山陽道を西に行き、九州地方をまわって引返し、山陰から北陸地方を歩いている。歳月を費やすこと10年近かった。」とある。

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