沢庵和尚27
(承前)仏法の慈悲と救済の表徴とされる千手観音、千の手がありその手に握られた様々な道具を用いて人々を救うとされる菩薩である。もし弓を取る手に心が止まれば、他の999の手は皆役に立たなくなってしまう。どこにも心を止めないからこそ千本の手が機能する。身体が一つの観音に千の手があり、心を止めないことで、これらを自在に役立てることができる。この境地を不動智といい、このことを人に示すために千手観音は作られたのである。
例えば、一本の木の赤い葉一枚だけを見ると、他の葉は見えない。一本の木に無心で向かえば、数多くの葉もすべて目に見える。すなわち、一枚の葉に心をとられてはいけない、一枚にも心を止めなければ百千の葉はすべて見える。この道理を悟った人は千手千眼をそなえた観音の境地を得た人である。
そうであるのに、凡人は身一つに千手千眼はありがたいと信じ、なまじの物知りはそれに何の意味があるのかと誹(そし)るのである。仏法では、一つの物の姿によって道理を顕わす事なのである。諸道みなこのようなものである。(続)
補足説明:江戸柳生系合気柔術においては、この目付の大事を指導します。特に、体捌きにおいては、どこを見るか、何を見るかが重要です。さらに上のレベルでは「心で応じよ」と教えられますが、この境地に至るのは難しいことです。さて、この体捌きの例では、まず全体(一本の木)をぼんやり視野に入れます、そこで、特定の場所(一枚の葉)に目付をします。そこの部位の微細な動きを察知し入身・転身を行うのです。これを逆にしてはいけません、相手の変化に対応出来なくなるからです。
“見る”ということは、存外難しいことです。ある時の稽古で、相手が崩れると「眉毛が揺れるのでそこを見てください。」と説明したところ、「えーっ?わかりません。」との反応がありました。私の言葉の意味はもちろん判るけど、最初は見えない。映像情報として頭には入っていくのにスルーされてしまう 意識をどこに向けるか、頭を頭でコントロールすることは難しいことです。先ほどの体捌きの目付も同様です。