茶道と武道(中)
能楽道を窮めた観阿弥、世阿弥の父子も阿弥陀仏を信仰する人々が用いた法名である阿弥号を持っているのであるから、半僧半俗の芸能人であったということが判るというものだ。ただし、阿弥号を持つからといって、隠者風芸能人とはいえない。その生涯の言行の超絶的か否かが問題とされるからである。
茶道では、足利八代将軍義政の同朋(将軍などに近侍して雑務や諸芸能をつかさどった僧体の者)をつとめた能阿弥、芸阿弥父子などは、村田珠光と比較すれば世俗的な茶人でもある。能楽では、足利三代将軍義満の庇護を受けていた観阿弥、世阿弥などもその言行から世俗的な芸能人かというと、そうとはいえない。
千利休は信長や秀吉の御茶頭(おさどう)として知行をもらって、名物茶道具も所持していたので、茶道の名人であっても、この点、侘び茶人とはいえないのではないか。その高弟の山上(やまのうえ)宗二も秀吉に仕えるが、しばしば直言、反抗したので追放され、流浪の旅を送って貧乏し、わずかの名物道具を売り払い、糊口をしのいだ。その後、利休のとりなしで再び秀吉に許されるが、再び直言し秀吉の怒りを買い惨殺された。山上は茶の湯の秘伝書「山上宗二記」を著している。その中の「茶湯者之伝」を見ると、茶の湯の開山といわれた村田珠光の弟子の善法は、京都の粟田口に住んでいたが、酒の燗をする燗鍋一つで食事もし茶も飲んでいたので「胸の中のきれいな者である。」といって、珠光にほめられたという。